親が子どもに「共感力」を求めるとき、頭に浮かんでいるのはたいてい、目に見える出来上がりの結果のほうです。おもちゃを友だちに貸してあげる、年下の子をいたわる、クラスメートをからかわない——そうした「よい行い」が今すぐ出てくることを、つい期待してしまいます。けれども共感力とは、よい行いの寄せ集めではありません。それは三つの部分から組み立てられる、ひとつのスキルです。相手の気持ちに気づくこと。その気持ちがどこから来たのかを理解すること。そして、自分がどう動くかを決めるときに、それを考えに入れること。三つのうちどれか一つが欠けていても、共感力はうまく働きません。気づいても理解できなければ的外れな慰めになりますし、理解しても行動に結びつかなければ、ただの傍観になってしまいます。この三つはどれも、練習によって育ちます。しかも、いちばん効果的なのは「やさしさとは何か」を説くお説教ではなく、遊びと、身近な大人の生きたお手本です。以下では、このスキルが年齢とともにどう育っていくのか、そしてそれぞれの段階でどんな遊びをすればよいのかを、順を追ってお話しします。
共感力とは何か——そして、何が共感力ではないのか?
共感力とは、他の人の気持ちを理解し、それに応える力のことです。ここで大切なのは、共感力とよく混同されるものを、あらかじめきちんと切り分けておくことです。まず、共感は「かわいそう」と思う憐れみとは違います。憐れむ人は相手を上から見下ろしていますが、共感する人は相手のとなりに、同じ高さで立っています。次に、共感は礼儀正しさでもありません。「どうぞ」「ありがとう」をきちんと言える子でも、目の前の人がつらい思いをしていることにまったく気づかない、ということは十分にありえます。作法は身についていても、相手を見ていない、ということです。そして、共感は「みんなを助け、みんなに譲らなければならない」という義務でもありません。相手の気持ちを理解することと、相手の要求に従うことは、まったく別のことなのです。この三つの混同を解いておかないと、親は共感力を育てているつもりで、まったく別のもの——従順さや、見せかけの礼儀——を育ててしまいます。
私たちのクラブでは、この区別を根本的に重要なものと考えています。共感力は道徳的な選択の土台であって、「扱いやすい子」になるための手段ではないからです。共感力の育った子どもは、「いつでも譲る子」ではありません。相手に何が起きているのかをきちんと見て、それを踏まえたうえで自分の行動を選ぶ子です。その行動は、手を差し伸べることかもしれませんし、「いやだ」とはっきり言うことかもしれませんし、大人を呼びに行くことかもしれません。どれを選ぶかは状況によって違いますが、選ぶ前に相手を見る——その一点が共感力なのです。「やさしい子」とは、言われたとおりに譲る子ではなく、自分の目で見て、自分の頭で選べる子のことだと、私たちは考えています。
子どもに共感力が芽生えるのはいつ?
答えは「一般に思われているより早く、そして親が望むより遅く」です。赤ちゃんの段階ですでに、まわりの感情は伝染します。新生児室で一人が泣き出すと、部屋じゅうの赤ちゃんがつられて泣き出す、あの現象です。まだ「相手」と「自分」の区別すらあいまいな時期に、気持ちだけは伝わっているのです。二〜三歳の子どもは、お母さんが悲しそうにしていることに気づいて、自分のくまのぬいぐるみを持ってきてくれます。思いやりの気持ちはもうそこにあるのですが、慰め方はまだ「自分がしてもらったら嬉しいこと」の枠を出ません。お母さんが本当に欲しいものではなく、自分が慰められるものを差し出しているわけです。三歳から五歳のあいだに、決定的な転換が起こります。子どもが「他の人は自分とは違うことを感じ、違うことを考えているのだ」と理解し始めるのです(この点については、後で紹介する研究を参照してください)。この時期からは、「あの子はどんな気持ちだと思う?」という問いかけを本気で交わせるようになります。六〜七歳になると、入り混じった感情への理解が加わります(「プレゼントは嬉しいけれど、欲しかったものと違って悔しい」というような、二つの気持ちが同時にある状態です)。そして九〜十二歳の子どもにとっての最大の試験は、集団の圧力のもとで思いやりを保てるかどうか——「みんなが」誰か一人を笑っているとき、その流れに乗らずにいられるかどうかです。一対一なら思いやれる子が、集団のなかでは黙ってしまう。この年齢の課題は、まさにそこにあります。
ここから、ひとつのルールが導かれます。遊びも会話も、子どもの年齢にぴたりと合っていなければならない、ということです。三歳の子に「お姉ちゃんの悔しさを内側から理解しなさい」と求めるのは早すぎますし、十歳の子に感情カードだけで済ませてしまうのは、もう遅すぎるのです。早すぎる要求は子どもを困らせるだけで、遅すぎる遊びは子どもを退屈させるだけです。どちらの場合も、子どもは「共感の練習はつまらない、あるいはできない」と学んでしまい、それがいちばんの損失になります。だからこそ、この記事では遊びを年齢別に分けて紹介しています。
研究からわかっていること
ここでは、このテーマに直接関わる三つの研究を取り上げます。それぞれについて、「何を示したか」と同時に、「何を証明していないか」もあわせて明記しておきます。研究の結論を、その研究が実際に調べた範囲より広げて受け取らないためです。育児の分野では、一つの研究結果が「科学的に証明された」という見出しに変わってしまうことがあまりに多いので、ここでは範囲を正直に示します。
思いやりは一歳を少し過ぎた頃にはすでに見られ、三歳に向けて育っていく
誰が、誰を対象に。 アリエル・クナフォ、キャロリン・ザーン=ワクスラーとその共同研究者ら、二〇〇八年、Emotion誌。四〇九組の双子を対象に、生後十四か月から三十六か月のあいだに数回にわたって、母親と実験者が痛がるふりをしたときに子どもがどう反応するかを観察しました。
何がわかったか。 相手を心配する気持ち、何が起きたのかを理解しようとする試み、そして助けようとする行動は、いずれも十四か月から三十六か月にかけて増えていきました。共感は比較的安定した性質であることも示されました。年齢を通じて一貫しており、感情的な側面と理解の側面のあいだでも、また母親への反応と見知らぬ大人への反応のあいだでも、よく整合していたのです。つまり、一歳半で相手を気にかける子は、三歳になってもそうである傾向があり、お母さんに対してだけでなく、初対面の大人に対しても同じようにふるまっていました。年齢が上がるにつれて遺伝の寄与が増え、家庭環境全体の寄与は減っていきました。ただし——ここが重要なのですが——共感と実際の援助行動との結びつきは、主に環境によって説明されました。
何を証明していないか。 対象は双子で、場所は実験室、国は一つだけです。しかも「痛がるふり」は本物の困りごとではありません。子どもが日常のなかで、本当に泣いている友だちを前にしたときにどうふるまうかは、この研究の設定からは直接わかりません。そしてこの結果は、「共感は生まれつきだから育てても意味がない」という主張の根拠にはなりません。むしろ逆です。このデータによれば、気持ちから行動への移行こそ、大人が何をするかに左右される部分なのです。
「他の人は自分と違うことを考えている」という理解は、どの国でも就学前の数年間に形づくられる
誰が、誰を対象に。 ヘンリー・ウェルマン、デイヴィッド・クロス、ジュリアン・ワトソン、二〇〇一年、Child Development誌。「誤信念課題」を用いた一七八の研究を集めたメタ分析です。誤信念課題とは、「他の人は、実際には事実でないことを本当だと思い込んでいる場合がある」と子どもが理解しているかどうかを調べるテストのことです。たとえば、箱の中身が入れ替えられたことを知らない人物は、まだ元の中身が入っていると思っているはずだ——それがわかるかどうかを見ます。
何がわかったか。 就学前の子どもたちは、偶然以下の正答率から偶然以上の正答率へと移行しており、この傾向は国が違っても、課題の形式が違っても、同じように繰り返し確かめられました。三歳前後の子どもの多くはまだ「自分が知っていることは、相手も知っているはずだ」と答えますが、五歳前後になると、相手の頭のなかには相手なりの(間違った)考えがあることを、はっきり区別できるようになります。著者らは、これは課題の作り方による見せかけの効果ではなく、就学前の数年間に「他者の心の理解」に本物の転換が起きていることを意味する、と結論づけています。
何を証明していないか。 誤信念課題は共感力のテストではありません。これは他者の考えを理解する力——共感力を支える三本柱のうちの一本——を測るものであって、思いやりそのものを測るものではないのです。それでも親にとっての結論は実践的です。「あの子はどんな気持ちだと思う?」という問いかけが本当に機能し始めるのは就学前の年齢であり、しかもこれは、要求したからといって早めることのできない発達なのだ、ということです。
共感力は訓練できる——早く始め、複数の要素に同時に働きかけるのがよい
誰が、誰を対象に。 ティナ・マルティとその共同研究者ら、二〇一六年、Journal of Clinical Child and Adolescent Psychology誌。子どもと青少年の共感力を高めることを目的とし、強い実証的な裏づけを持つ十九の学校プログラムを分析したものです。
何がわかったか。 プログラムの大半は学年ごとの違いを考慮していましたが、同じ学年のなかでの子ども一人ひとりの違いを考慮したものは、一つもありませんでした。つまり「八歳の子ども」という括りで内容が組まれていて、同じ八歳でも発達の進み方が違うことには目が向けられていなかったのです。開始年齢が早いこと、そしてプログラムが働きかける共感の構成要素の数が多いことは、より大きな効果とある程度結びついていました。
何を証明していないか。 対象は学校のプログラムであって、家庭での遊びではありません。教室で効果があった方法が、そのまま家庭のリビングでも同じように効くとは言い切れないのです。効果の大きさはプログラムによってさまざまで、必ずしも長く持続するとは限りません。それでも方向性は、以下に紹介する遊びの組み立て方と一致しています。幼いうちから始めること、そして「気づく・理解する・行動する」の三つすべてを鍛えること、です。
三つの研究から親が受け取るべき結論は、結局ひとつに集約されます。思いやりの気持ちは、言葉を覚えるずっと前から子どものなかにある。他者の心を理解する力は、就学前の数年間に自然と訪れる。しかし、気持ちを行動に変える部分——これこそが大人の手で育てる領域であり、その手段は遊びとお手本、そして命令の代わりの問いかけなのです。言い換えれば、親の仕事は共感を「植えつける」ことではなく、すでにある芽が行動へと伸びていく道を用意することだと言えます。
共感力を育てる遊び:三〜五歳
- 「かがみ」。 大人が顔の表情でひとつの気持ちを表し、子どもがそれを当てて、同じ顔を真似します。次に役割を交代して、今度は子どもが出題します。こうして共感力のいちばん最初の層、つまり顔から感情を読み取る力が鍛えられます。相手の顔を見て「この人は今どんな気持ちだろう」と読み取る力は、後のすべての段階の入口になります。道具も準備もいらず、朝の着替えの合間にでもできる遊びです。
- 「この子はどんな気持ち?」 絵本の印象的な絵のたびに、ちょっとだけ立ち止まります。「うさぎさんを見て。どんな顔してる?楽しそう?こわがってる?どうしてそう思う?」答えが「正しい」かどうかは気にしなくてかまいません。大切なのは、絵のなかの誰かの気持ちに目を向け、その理由を考えるという動きそのものです。絵本一冊で、小さなトレーニングが十回できます。読み聞かせの時間がそのまま、気持ちを読む練習の時間になるのです。
- 自分だけの、本物のお世話。 花に水をやる、猫にごはんをあげる、おばあちゃんにお茶を運ぶ。これは「お手伝い」ではなく、生きているものに対する、その子自身の責任の領域です。「これはあなたの仕事」と決まっていて、忘れれば花はしおれ、猫はおなかをすかせる——その実感が大切です。誰かが自分を頼りにしている、自分の行動が誰かの状態を変える。この感覚が、思いやりの土台になります。思いやりの習慣は、やさしさについての会話からではなく、毎日の実際の行いから育ちます。
- 公園で、他の子の気持ちを言葉にしてあげる。 「あの子、泣いてるね。車のおもちゃが壊れちゃったんだ。あなたも風船が割れたとき、すごく悲しかったよね、覚えてる?」他の人の気持ちと、自分自身の経験のあいだに橋をかけること——これがこの年齢の共感の基本的なしくみです。この年齢の子どもは、自分が味わったことのある気持ちを通してしか、他人の気持ちに近づけません。だからこそ、その橋を大人がかけてあげるのです。
共感力を育てる遊び:六〜八歳
- 「役を交代しよう」。 昨日のけんかをもう一度演じてみます。ただし、子どもがあなたの役を、あなたが子どもの役をやるのです。笑いが起きるのは確実ですが、それと同時に、子どもは初めて自分の言葉や態度を外側から見聞きすることになります。「片づけなさいって言ったでしょ!」と自分が言う側に回ってみると、言われる側の気持ちも、言う側の気持ちも、両方が少しずつ見えてきます。これは視点を切り替える練習であり、共感力の核心そのものです。
- 「気持ちを当てよう」。 ジェスチャーゲームですが、お題は動物ではなく感情です。「くやしい」「誇らしい」「はずかしい」を、言葉を使わずに体と顔だけで表現します。感情の語彙が広がりますし、名前をつけられる気持ちは、気づける気持ちにもなるのです。「なんかイヤ」としか言えなかったものが、「悔しい」「恥ずかしい」「さみしい」と区別できるようになる——それが他人の気持ちを見分ける目にもつながります。
- アニメの一時停止。 対立の場面で一時停止し、二つの質問をします。「この子はどんな気持ち?じゃあ、あっちの子は?」秘訣は、両方について——「悪い側」も含めて——尋ねることです。悪役がなぜそうふるまったのか、その子は何に腹を立てていたのか、何をこわがっていたのか。いじめる側の気持ちを理解することは、その行いを認めることではありません。この区別は、あいまいにせず、はっきり言葉にして伝える価値があります。
- ボードゲームで負ける経験。 いつも手加減してあげてはいけません。実際に味わう敗北は、思いやりのトレーニング装置です。負けた子はこの気持ちを内側から知り、勝った子は相手を踏みつけずに喜ぶことを学びます。どちらの役も、順番に経験することに意味があります。負けて泣いている子には、「悔しいね」と気持ちを認めてあげたうえで、次のゲームに誘えば十分です。負けを味わったことのない子は、負けた相手の気持ちを想像することもできません。
- つらい思いをしている人へのカード。 クラスメートが病気になった、おばあちゃんが寂しがっている——そんなとき、その人のために何か描いたり書いたりすることを提案してみましょう。子どもは「あの人は何をもらったら嬉しいだろう?」と想像する努力をします。自分の好きなものではなく、相手の好きなものを考える。恐竜が好きなのは自分で、おばあちゃんが好きなのは花かもしれない——その小さな気づきが、視点の切り替えそのものです。これはもう、行動としての共感です。
遊びと実践:九〜十二歳
- 「二つの真実」。 日常でも本でもニュースでもかまいません、ひとつの対立を取り上げて、二回語ります。それぞれの当事者の立場から、真剣に、戯画化せずに。一方を正しい人、もう一方を悪い人として描いてしまったら、この遊びは成り立ちません。子どもの課題は、それぞれの人がそれぞれのやり方でどこが正しいのかを見つけることです。この練習は、いちばん難しいこと——意見の合わない相手に思いやりを持つこと——への準備になります。
- 年長者へのインタビュー。 おじいちゃんやおばあちゃんに、子どもから質問してもらいます。「ぼくの年のころ、何がこわかった?」「どんな夢を持ってた?」「友だちとけんかしたことある?」子どもにとって、大人はこれまで「世話をしてくれる人」「ルールを決める人」でした。その大人にも、かつて自分と同じように不安や憧れがあり、今も自分自身の内面の世界があるのだという発見は、この年齢の共感力にとって、もっとも強い後押しになります。
- 「助けるふり」ではない、本物の助け。 動物保護施設、衣類の寄付、近所の人の手助け——ただし、ひとつだけ条件があります。誰を、どのように助けるかを選ぶ段階に、子ども自身が参加することです。「日曜日はボランティアに行くから、着替えなさい」ではなく、「誰かの役に立ちたいと思う?誰の?どんなふうに?」から始めるのです。上から割り当てられた「やらされるよい行い」が育てるのは、共感力ではなく、共感への嫌悪感です。
- 「みんなが笑ってた」についての会話。 クラスで誰かがからかわれていた、という学校の話は、説教のきっかけではなく、考えるための材料です。「その子はどんな気持ちだったと思う?じゃあ、つられて笑ってた子たちは、どんな気持ちだったんだろう?本当におもしろかったのかな、それとも自分が次の標的になるのがこわかったのかな?」まさにここで、共感力はいじめというテーマと出会います。詳しくは学校でのいじめについての記事をお読みください。
大人のどんな間違いが共感力を殺してしまうのか?
- 「かわいそうって言いなさい」「ごめんなさいしなさい」と強制する。 子どもから絞り出した思いやりは、気持ちを「持つ」ことではなく「演じる」ことを教えてしまいます。口では「ごめんね」と言いながら、心のなかでは何も動いていない——そのずれを、子どもは早くから覚えてしまうのです。命令の代わりに効くのは問いかけです。「どうしたらあの子を助けられるかな?」無理やりの「ごめんね」なしに事態を正すとはどういうことか——人のものを取ってしまった子どもについての記事で詳しく扱っています。
- 「冷たい子だ」と恥じさせる。 「恥ずかしくないの、あの子泣いてるのに!」——このとき子どもが受け取るのは、相手の気持ちについてのメッセージではなく、「自分は悪い子だ」というメッセージです。注意は泣いている相手から、自分を守ることへと移ってしまいます。恥ずかしさでいっぱいになった子どもに、他人のために心を開く余地は残っていません。恥は共感力を閉ざすものであって、開くものではありません。
- 子ども自身の気持ちを軽んじる。 「泣かないの、そんなのたいしたことじゃない」と言われ続けた子どもは、いちばん大切なことを学びます——気持ちなんてたいしたことじゃない、と。他人の気持ちも同じです。自分の悲しみを取り合ってもらえなかった子が、友だちの悲しみを大切にするはずがありません。他者への共感は、自分自身が真剣に受け止められることから始まります。これは感情知性全体の土台でもあります。
- 「やさしい子」と比べる。 「マーシャはいつもみんなに貸してあげるのに」という言葉が育てるのは、やさしさではなく、マーシャへの恨みです——そして、ついでにあなたへの恨みも。比べられた子は、マーシャのようになろうとするのではなく、マーシャを嫌いになります。お手本として差し出した相手が、子どもの目にはライバルに、ときには敵に見えてしまうのです。
- 自分をいじめる相手への思いやりを要求する。 おもちゃを取られるたびに「弟の気持ちも考えて、まだ小さいんだから」と言われれば、子どもが学ぶのは共感ではなく、不公平に耐えることです。順番が大切です。まず守ること、そしてその子の悔しさを認めること——「取られて悔しかったね、それは当然だよ」。相手の気持ちについて話すのは、その後です。兄弟姉妹のあいだでこれをどう調整するかは、兄弟間の競争についての記事をご覧ください。
共感力と境界線:なぜ「思いやり深い」は「弱腰」ではないのか?
最後に、そしておそらくいちばん大切なポイントです。親はときどき、こんな心配をします。「あまりやさしい子に育てたら、まわりに利用されてしまうのではないか」。わかる心配ですが、それは実は別の問題についての話です。利用されるのは、「理解する」と「譲る」の区別がついていない人です。相手の気持ちがわかったら、その要求にも応えなければいけない気がしてしまう——それは境界線の欠如であって、共感力の過剰ではありません。共感力を減らしても、この問題は解決しません。必要なのは、共感力はそのままに、境界線を足すことです。
だからこそ、二つのスキルはセットで教えてください。「きみががっかりしてるのはわかる。でも、これはぼくの車で、遊び終わったら貸すよ」——これは、共感力も境界線も健やかに育っている七歳の子どもの言葉です。相手の気持ちを見ている、それを言葉にしている、それでも自分の決めたことを曲げていない。そして、いつ貸すかを自分で決めて、それを相手に伝えている。こういう子どもは、他人の痛みに気づくことも、自分の意志で助けることも、罪悪感なしに「いや」と言うこともできます。これこそが、実は目標なのです。見せるための都合のよいやさしさではなく、自分自身でありながら他者を思いやることのできる、内側からの力を育てること。それができる子どもは、利用される側にはなりません。
参考文献
- Knafo A., Zahn-Waxler C., Van Hulle C., Robinson J. L., Rhee S. H. The developmental origins of a disposition toward empathy: Genetic and environmental contributions. Emotion, 2008, 8(6), 737–752. doi:10.1037/a0014179
- Wellman H. M., Cross D., Watson J. Meta-analysis of theory-of-mind development: The truth about false belief. Child Development, 2001, 72(3), 655–684. doi:10.1111/1467-8624.00304
- Malti T., Chaparro M. P., Zuffianò A., Colasante T. School-based interventions to promote empathy-related responding in children and adolescents: A developmental analysis. Journal of Clinical Child and Adolescent Psychology, 2016, 45(6), 718–731. doi:10.1080/15374416.2015.1121822
ここで紹介した遊びは例であって、プログラムではありません。お子さんの年齢や性格に合わせて選び、合わないものは無理に続けなくてかまいません。この記事は、専門家による対面の相談に代わるものではありません。
